時の内閣総理大臣は憲政会の若槻礼次郎、ボクシング世界ヘビー級王者はジャック・デンプシー。小説家川端康成が『伊豆の踊り子』を発表し、チャップリンの映画『黄金狂時代』が日本でも公開され、高柳健次郎が世界で初めてブラウン管を使用した画像「イ」の送受像に成功、印象派の巨匠クロード・モネが世を去り、東京上野に東京府美術館(のちの東京都美術館)が開館、元号が大正から昭和に変わったこの年-1926年の5月、ヨーロッパ留学から帰った意気盛んな青年画家5人がひとつの美術団体を立ち上げました。団体の名称は彼らの敬慕するバルビゾン派が1830年派とも呼ばれたことになぞらえた「1930年協会」。
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純真を慕ふ 一九三〇年洋画協会に就て
木下孝則
小島善太郎、里見勝蔵、前田寛治の三氏と、自分と、この三月に帰朝した佐伯祐三氏を加へて、以上五名のものによって新たに一つの美術団体が生まれた。
現在、数多き美術団体があり、絶えず展覧会が開催されているにかかはらず、新たに一つの団体が生まれたことは、勿論吾々にとつて、それが必要であるからではあるが、何ゆえ必要なのであるか自分は知らない。
一九三〇年、この年号は、吾々の頭に異様に響く、この年号を無意義に過去にやりたくない。この年号を意義あらしめてやる、さうした気持ちと、日本に帰ったら毎年意義のある展覧会をしようと話し合った在仏中の友情とが集まつて一つの団体が生まれたと考へる。しかしそれだけでは物足りない。
一九三〇年が、何ゆえ吾々の頭に強く響くかは、吾吾の現在の仕事がそれを物語つている。そして一九三〇年が来た時、何ゆえにこの団体が生まれたかといふことが明瞭になるだらう。
一九三〇年はすぐに来る、あと四年、遠いことではない、一九三〇年を、兎に角無意義に過ごしてはたまらないと思ふ気持と、またわれわれが、コロー、ミレー、ドミエー等を一八三〇年派としてその純真にして質朴なるを、尊敬する気持とが合して、ここにこの団体の名称を一九三〇年協会としたのである。
五月十日から、二十四日まで日米信託ビル内において、第一回展覧会を開催して吾々五名の渡欧作品百八十点を陳列してある。小島善太郎氏は三十点、里見勝蔵氏は四十五点、前田寛治氏は大作及び小品四十点、自分は数点を出陳している。それは過去における吾々の足跡である。その一部はすでに発表され、衆目の知るところであるが今日出陳した大部分の作品は、未発表のものであり、サロン・ドートンヌ以来未だに発表したことのない佐伯祐三氏の滞欧作品中の一部と共に、吾々の今日を物語るに十分なものである。ここに自分は大声をあげている、一九三〇年を見ろといふ。しかし、むしろ黙して仕事を進むべきであらうか。さうではない。大声をあげることは自分自身を強くする。
吾々は野心家ではない、吾々は何事もたくらんではいない、ただし力強い仕事を残したいのである。
第一回の展覧会は、会場の不備と、経験の不足からの失敗によって思ふ様に行つていないが、回を重ねるに従つて大股に理想に進んで行く。また会も次第に増し、大きな一つの団体として、内容も充実させ、一九三〇年を迎へようとしている。
来春第二回を開く、佐伯祐三氏の滞欧作品を七八十点と吾々の一ヶ年の勉強と新たに二三人の友人を加へて自信を強くして行く。
思って出来ないことはなにもない。
(大正15年5月18日東京日日新聞に掲載された宣言文)
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1920年代前半、芸術の都パリに学んで友情をはぐくみ、当時最先端芸術のひとつだったフォービスムなどの新思潮を身につけて帰国した5人の若者、小島善太郎(1892-1984)、木下孝則(1894-1973)、里見勝蔵(1895-1981)、前田寛治(1896-1930)、佐伯祐三(1898-1928)は、1926年5月、東京京橋でヨーロッパ滞在中の作品など約170点によって「1930年協会第1回洋画展覧会」を開催し留学の成果を世に示しました。展覧会は評判を呼び、これに共感した若手作家で二科会所属の林武(1896-1975)、野口彌太郎(1899-1976)、木下義謙(1898-1996)らが新会員として加入、翌年の第2回展では公募を開始したところ各地の若い画家たちから支持を得てこれまた盛況となり、続く第3回展も成功裡に終えると、協会独自の絵画研究所を代々木に開設して講習会を実施するなど意欲的に活動を展開、1930年協会は新興美術団体として急激に注目を集めました。
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1930年協会は、メンバーおのおのが先行団体への所属も継続したままの、いわば若手作家による超党派の集まりであり、彼らには画壇における政治的野望はなにもなかったようなのですが、あに図らんや旋風のごとく巻き起こったその勢いは、当時の官展アカデミズムや他の有力な在野団体が存在をおびやかされかねないと脅威を感じ、ある団体などは会員が1930年協会と掛け持ちして在籍するのを禁止する決まりまで設けるほどだったといいます。
その始まりには清新だった明治時代や大正初期からの既成画壇が、それはそれで指導的立場として重要な役割を果たしながらも時を経るにつれて権威化し硬直化していくのを避けられない世の習い、そこに風穴を穿つかのような1930年協会の行動が若い血潮の共鳴を呼んだであろうことは想像に難くありません。 |
ところが、順風満帆と思えた1930年協会なのですが、佐伯祐三が1930年を待たずに病を得てパリで客死、里見勝蔵が29年に協会を離脱、木下孝則は渡欧し、前田寛治が病床に臥してしまったことで創立会員を欠いた協会は、ついにやってきた1930年の第5回記念展では、それまで以上の応募を受け付ける盛況のいっぽうで組織の消滅という局面を迎えてしまいます。
そうしたなか、こんどは当時の有力団体だった二科会、春陽会、国画会をとび出した同志たちを中心に集まった若手作家たち-里見勝蔵、児島善三郎、林武、川口軌外、小島善太郎、中山巍、鈴木亜夫、鈴木保徳、高畑達四郎、福沢一郎、清水登之らが、1930年協会を継承発展させるかたちで、既成画壇からの決別、それそのものをテーゼに掲げて「独立美術協会」を創設しました。
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独立宣言
茲に我々は各々の既成団体より絶縁し、独立美術協会を組織す。以て新時代の美術を確立せん事を期す。
昭和五年十一月一日
趣旨
此度私達は種々の私的事情を押し切り、結束して独立する事に到りましたのは、現画壇に私達の芸術を闡明し、新らしき時代を実現したい希望の外何物もないのであります。私達は各々の所属団体の優遇に満足し感謝する時ではなく、私達の芸術及び尖鋭な新人達の活躍に従って画壇を少くも十年二十年の時を短縮し飛躍させる事を信ずるのであります。今や全画壇の大家老い中堅は安逸を貪り、無意味なる常連作家への擁護に依って新人は飛躍を阻害され、新興機運は頓に阻害され、以て、疲労と沈滞を来している事はすでによく御存知の通りと思ひます。茲に私達はあらゆる弊害を廃して新芸術の研鑽開拓に邁進し、新らしき時代の実現に全力を盡す事を約束するのであります。
独立美術協会
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そして1931年1月、「独立美術協会第1回展」が東京府美術館において開催されました。1930年協会に対する全国の若い絵画青年たちの支持をそのまま引き継いで勢いは止まりません。ある会員はその時の様子を次のように述べています、「それは作品の洪水であった」。
本展では1930年協会と、そして今に続く独立美術協会の草創期を支えた24人の作家、作品63点を展観いたします。
本展でご覧いただくのは今から90年前、忍び寄る軍靴の足音がしだいに大きさを増していることに人々がまだ気付かないでいた昭和のある時期に、時代を全力で駆け抜け、美術界に旋風を起こした若者たちの鼓動であります。
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出品作家
清水登之(しみずとし 1887-1945)
鈴木保徳(すずきやすのり 1891-1974)
須田国太郎(すだくにたろう 1891-1961)
川口軌外(かわぐちきがい 1892-1966)
小島善太郎(こじまぜんたろう 1892-1984)
中山巍(なかやまたかし 1893-1978)
児島善三郎(こじまぜんざぶろう 1893-1962)
伊原宇三郎(いはらうさぶろう 1894-1976)
鈴木亜夫(すずきつぎお 1894-1984)
鈴木千久馬(すずきちくま 1894-1980)
古賀春江(こがはるえ 1895-1933)
高畠達四郎(たかばたけたつしろう 1895-1976)
里見勝蔵(さとみかつぞう 1895-1981)
前田寛治(まえだかんじ 1896-1930)
林武(はやしたけし 1896-1975)
佐伯祐三(さえきゆうぞう 1898-1928)
木下義謙(きのしたよしのり 1898-1996)
福沢一郎(ふくざわいちろう 1898-1992)
田中佐一郎(たなかさいちろう 1900-1967)
田中行一(たなかこういち 1901-1982)
海老原喜之助(えびはらきのすけ 1904-1970)
中村節也(なかむらせつや 1905-1991)
今西中通(いまにしちゅうつう 1908-1947)
大野五郎(おおのごろう 1910-2006)
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