1941年、第二次世界大戦という戦乱の世にあって、フランス政府がついに採択した人種法によりフランス国籍を剥奪されたシャガールは、その前年から受けていたニューヨーク近代美術館からの招聘の申し出に応じるかたちで家族でアメリカに亡命した。英語圏での異邦人としての暮らしに落ち着きを感じられないながらも、同じように亡命していた芸術家仲間や美術界の友人たちに支えられながら制作に励むシャガールだった。そして1944年9月のパリ解放のニュースに歓喜するさなか、ともに帰国するはずの夢を果たさぬまま、苦楽を共にしてきた最愛の妻ベラが急逝した。シャガールの悲しみは大きく、そののち何カ月も絵筆を握ることができなかったという。
本展を構成する作品は、それ以降、悲しい試練を乗り越え、やがて世界的巨匠として最高の賛辞をもって人々に愛されるようになったシャガールが、人生の後半期に世に贈った7つの連作版画である。
またこれらに併せて、祖国ロシアをあとにして、ヨーロッパで筆で身を立てる方途を模索していた1920年代のものと思われる、シャガールが画家として大成する以前の初期版画作品5点を展示いたします。
『母性』 Maternité
1926年刊行
エッチング・アクアチント・ドライポイント 全5点
小説家マルセル・アーランドの短編小説のための挿絵集。活動拠点をロシアからパリに移したばかりの、青年画家シャガールがてがけた、版画作品としては初期にあたるもの。
『アラビアンナイトからの四つの物語』
Four tales from the Arabian nights
1948年刊行 リトグラフ 全13点
千夜一夜物語の別名で親しまれている中世イスラム世界の説話集から4つの話をとりあげた、シャガールが初めて手掛けた多色刷のリトグラフ集。本展では全13点のうち5点を展示。
『聖書』 Bible
1956年刊行 エッチング 全105点
旧約聖書の物語集。ユダヤ教徒として戒律の世界で生まれ育ったシャガールにとって身近でもありまた重要な、生涯を通じてのイメージの源泉となった、宿命的といえるテーマのひとつで
『悪童たち』 De mauvais sujets
1958年刊行 エッチング・アクアチント 全10点
同時代の詩人であり批評家ジャン・ポーランの短編小説に挿絵を描いて出版されたもの。この仕事でシャガールは初めて多色刷りで銅版画に取り組んだ。
『ダフニスとクロエ』 Daphnis et Chloé
1961年刊行 リトグラフ 全42点
2-3世紀ギリシャの詩人ロンゴスによる物語をあつかったもの。エーゲ海に浮かぶレスボス島を舞台にした少年と少女の牧歌的な恋の話。色彩画家シャガールの真骨頂が発揮された最高傑作といわれる。
『出エジプト記』 The Story of the Exodus
1966年刊行 リトグラフ 全24点
聖書の中の一書。虐げられていたユダヤ民族が預言者モーゼに率いられて約束の地カナンへと向かうべくエジプトを脱出する物語を中心にシナイ山での神との契約にいたるまでが語られる。56年刊行の『聖書』は銅版画だが本作はリトグラフ。
『サーカス』 Cirque
1967年刊行 リトグラフ 全38点
サーカスもまたシャガールが生涯にわたって描き続けたテーマであり、油彩画などでもたびたび作品を制作している。シャガール80歳のいわば集大成の一つといえる版画集。
『オデッセイ』 L'Odyssée
1975年刊行 リトグラフ 全43点
古代ギリシャの詩人ホメーロスの作とされる長編叙事詩の挿絵。
戦いに勝利した英雄オデュッセウスが凱旋の途中10年間にわたって
漂流の旅をしいられ、ついに帰り着いて妻と再会する冒険譚。