1992年1月29日(水)-2月23日(日)
休館日 火曜日、 2月12日(水)
彩りのない人生に彩りをそえることを画家の務めとするならば、キスリングはもっとも画家らしい画家の一人だった。確かに彼は希有の天才でも大胆不敵な冒険家でもなかった。彼はただみずから 欲するものを欲するように描いただけだった。人物、風景、静物、 裸婦。昔から繰り返し繰り返し描かれてきたものばかりである。しかしどの絵にもキスリングの楽天主義的なおおらかさが、生をいつくしむ心が息づいている。1891年、 スーラが没し、エルンストが生まれた年にポーランドの首都クラクフに生まれたキスリングは、19歳の時パリを出て近代美術の青春時代を生きた。ピカソもブラックもコクトーも、みんな陽性で人なつっこいこのポーランド人の友達だったが、中でもモジリアニは大の親友だった。彼が36歳の若さでほとんど無一文で死んだ時、ためらうこともなく葬儀の費用をだしてやったのもキスリングだった。第一次大戦では外人部隊に入って前線で負傷し、除隊後知り合ったルネ・グロ嬢と結婚した時には、モンパルナスのレストランで親しい仲間と三日三晩祝宴を張ったキスリング。第二次大戦の際には50歳になろうというのに、同胞のユダヤ人のために戦おうとあえて入隊したキスリング。戦後訪れたハリウッドでは大ピアニスト、アルトゥーロ・ルビンスタイン一家の肖像を描き、女優のミシェル・モルガンに絵を教えたキスリング。キスリングの生涯は、かくのごとく彩り豊かなものであったが、しかし彼の絵はその上を行く。生誕100年を迎えてなお、彼の絵は一向にその輝きを失わない。そのキスリングに会える日がやってくる。(成城大学教授 千足 伸行)
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